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DuoTakase 証
賛美の力
2006年4月29日
近畿福音ルーテル教会 女性連盟大会に招かれ、賛美をさせていただきました。
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今回賛美させていただいた、和歌山ルーテル教会は大阪より片道車で1時間45分ほどの距離である。礼拝が午前10時30分から始まるので、10時到着を目指して快調に車を走らせた。1度和歌山ルーテル教会にはお邪魔しているので、道には迷わないだろうと・・・目印の「かばんやさん」と「パンやさんを」探す。しかし・・甘かった・・同じ道をあっち行ったり、こっち行ったり・・方向音痴の私は道に迷ってしまった。
そうだ!ルーテル教会から事前に頂いたプログラム冊子をみればわかるんじゃないかと見てみるが、なんと、住所も電話番号もない。
余裕があった時間がどんどん無くなったいく・・そこで家内の鶴の一声!コンビニに入りなさい!!そこで、電話帳を調べ、カーナビに場所をプリセットする。一安心である。しかし・・・あと800メートルくらいのところで渋滞・・・なんでぇ?道路工事であった。結局・・10分ほど遅刻してしまった。
礼拝堂は超満員の婦人達である。180名程集われていたそうである。私たちが席に着席させていただいた時には、ゲストスピーカーのメッセージが始まっていた。アリ・レジャイアン牧師の福音メッセージでありました。師はイラン人であるけれど・・日本のリバイバルのために日本語を習得し、JTJ神学校を卒業され、現在は小田原友愛キリスト教会牧師。おまけがついて・・もとイスラム教徒で、サッカーの強力な選手であったそうだ。神様はすごい。
メッセージのタイトルは「戦場で出会った愛」1人のイラン青年のイエス様との出会い・・・・聖書は「ヘブライ13:8 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」。
師はイラン・イラク戦争で多くの知人・友人を亡くされた・・食べるものも少なく・・時にはカッパライや、野に生きるもの何でも食べたそうである。しかし、兵隊の中に、いつも元気で、食べるものを他人に分けて平気な顔をしている一兵卒が目にとまったそうです。
自分の置かれた・・この極限状態の中で、なぜ他人の必要に配慮できるのか・・理由がどうしても知りたいと思ったそうです。ある日、その兵隊さんと話をする機会が与えられ、主の福音を聴き、イエス・キリストを救い主として受け入れ・・現在至っているというお話を伺いました。笑いあり・涙あり・賛美あり・の師のメッセージは参加された皆さんをおおいに励まされたと信じます。
午後からの私たちの賛美集会も、祝福のひと時となりましたこと、主に感謝します。
「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」主の愛に感謝しつつ、「愛の挨拶」を賛美し、聖霊のお働きなしに、私たちは主の宮に入る方法を知らなかった。「埴生の宿」を賛美。しかし、お1人、お1人、が通過される、様々な課題に時には悲しみ・苦しむ。しかし、その後になれば主のご愛とご計画のうちに歩まされている平安と恵に感謝する。「愛の悲しみ」などを賛美し、家内が「証」を語らせていただきました。
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家内は4歳からピアノを始め、練習も好きで一生懸命頑張りました。どうゆういきさつで教会へ通うことになったのか覚えていないそうですが、教会学校に通っていたそうです。しかし、その教会は焼失してしまい、十字架の焼け落ちるところまで、見てしまったそうです。そのとき「なぜ、神様のおうちが火事になるのか?」と考えたそうです。それが第一のつまずき。中学3年生の時、生きたい!と願う父や、家族の生きてほしいとの願いに答えられることなく、父親は胃がんでなくなってしまう。「なぜ、神様は私たちから父親を奪うの?」その事実が彼女の夢でもあった、ピアノでの有名大学への進学を諦めなければならなくなった。第二のつまずきとともに、頼れるのは自分のみと頑張り始める。その後・・・教会とは全くつながることなく大人になり、自分で頑張って稼いだお金で、オーストリアのウイーンへ音楽留学の夢を果たす。
そこで現在の夫である「真理」氏と出会ってしまい、結婚する。「真理」氏の両親はクリスチャンであったが・・・自分に対する仕打ちその境遇をのろいクリスチャンである両親につまずく。第三のつまずき。結婚生活もギクシャクし始め真理氏も仕事にかこつけ自宅に戻らなくなる日が増えてきました。その様な生活の中家内は、自分の姿も見失ってしまっている自分に気がつかない「疲れた」状況へと追い込まれていきます。頼れるものは「神さま」という存在しかいない。何かに頼らなければ、自分自身を維持していくことも難しい情況でした。しかし、真理氏は徹底的なアンチクリスチャンでしたから、教会へ行くことはゆるされませんでした。そこで、キリスト意外なら、何を信仰しても、本物の神ではない。という、真理氏の妙な発言に疑問を抱きつつ、本当にすがるような気持ちである新興宗教に入信しました。しかし、その場所に平安はありません。かえって心が騒ぎ、希望がありませんでした。そんな時に、真理氏が、仕事を継続していくことが困難な状況であることが事実として目の前に現れました。彼は、聞こえるはずの無い音「幻聴」に犯され、人間としての、日常生活を維持することが不可能になりました。事実、すべての人間生活を停止せざる終えなくなりました。
この機会は、高瀬家との決別を決心する良い機会でもあったのですが、その様にしなさいという、導きが不思議とありませんでした。私の周りでも、他人が騒がしく、主人の罪を叫び、関係ない私の職場にまで、その影響は及んでいきました。静まりたくても、家の中では静かな場所などありません。しかし、唯一静かになれる場所があったのです。その場所はお風呂でした。私は、ピアノという楽器を習得するにも、父を先に亡くしてしまう、という体験を通し、「自分がやらねば、誰がやる」。と、頑張って、頑張って、生きてきた。またその様な、過去を回想し、自分のやってきたことが、正しいことで悪いことは一つもしていない。なのに、今の私は一体何をしているの?そのように考えると、悔しくて、情けなくて、涙があふれてとまりませんでした。
しかし、その様な私を主は心から愛してくださり、私を我に返す「み言葉を」語ってくださいました。
私は、当時聖書をよんだことはありません。全く知らなかったのです。お風呂が優しい光に包まれるような、その様な感じでした。そして、その言葉が聞こえました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」洗礼を受けた後に、聖書に書かれていたみ言葉だと知りましたが、その当時は、その言葉により、自分自身が疲れ、自分自身を見失い、希望のない日々を送っていた私に明るい希望の光となりました。なぜなら、言葉で言うのは簡単ですが、目の前にいる自分を傷つけ、苦しめてきた憎い彼を「赦し」受け入れることができたからです。
「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
このみことばにより、一気に私の心は、平安に導かれました。確かに私のダンナは、悪い、しかし、私自身その身をダンナと入れ替えて状況を同じくすれば、同じ事をしていただろう。私も同じ人間であると気づかされました。新興宗教にみをおいても安らぎのなかった点は、背負う荷が重いままだったからです。
イエス・キリストに、お風呂で出会わなければ・・私は、一生を歯軋りし、のろい、苦しみながら終えたことでしょう。
しかし、「私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからです」。と、ともに主が今も生きて働かれ、ともに歩いてくださっているその真実に、感動し、感謝しつつ、主が私にしかできないご用を備えてくださっていることに祈りをもって奉仕させていただきたいと願っています。そのご、数曲賛美し、祝福のひと時となりました。主に栄光がありますように。